2024年08月22日公開
中国企業法務の軌跡(2)
J&Cドリームアソシエイ 大澤頼人 *1
1. 反日デモ~2005年
私は法務の仕事では契約や法令調査に集中し政治や歴史認識に深入りしないことにしていますが、中国に限っては歴史認識を自分の中で整理しておかなければ仕事ができないと思っています。
2005年4月と2012年8月に起きた反日デモのとき、私は偶然、中国にいました。2001年に小泉首相が靖国神社に参拝したことがきっかけで日本製品の不買運動が起きたりして反日の雰囲気がくすぶっていました。2005年に韓国で竹島の領有権をめぐって反日運動が発生し、これに連動するようにして中国でも反日デモが起きました。
私は上海市内の日本領事館近くのホテルに宿泊中でした。領事館あたりがデモの解散地ということもあり、色々なインク便、卵、ペンキの缶が領事館の壁に投げつけられて凄まじい色の壁になっていくのをじっと眺めていました。この地域は日本の会社のオフィスや日本人居住用のアパアートが密集しており、中国人が経営する日本食のレストランも数多くありましたが、ほとんどの店が破壊されました。反日デモは中国の他の都市でも発生していましたが上海市が一番激しかったようです。
この時、私たちは上海市政府の依頼を受けて長江(揚子江)河口にある崇明島(中国で2番目に大きい島で面積は1,225㎡。日本で一番大きい淡路島の約2倍)に出張する予定でした。ホテルの前にはデモ参加者が集合していたためホテルから出ることができず出張を諦めていたところ、上海市政府の担当者が車で迎えに来ており、ホテルの裏門から出て崇明島行きのフェリーの乗り場まで無事たどり着きました。崇明島では何事もなかったように上海市政府の職員と一緒に終日仕事をしていました。
そもそも、中国では言論の自由がないため(憲法上は認められてはいますが)デモはできないにもかかわらず警察の規制はありませんでした。私たちと行動を共にしていた上海市の職員は、『このデモには上海市民は参加していない。出稼ぎの農民工(農村戸籍の人)が暴れているだけだから気にしなくてよい。上海市政府は何も知らない』と言いました。市政府よりも上位組織よる官製デモだったのです。
*1) 2013年まで伊藤ハム法務部長、その後J&Cドリームアソシエイ設立。2002年伊藤ハム中国の一般代表。2013年まで伊藤ハムの中国子会社の董事、監事を歴任。2008年~2011年まで上海交通大学法学院客員教授、2017年~2022年まで中国哈爾濱市仲裁委員会委員、2006年~2023年まで同志社大学法学研究科非常勤講師、2017年立教大学法学部非常勤講師、2019年~2023年まで株式会社大泉製作所社外監査役、2013年から現在まで一般社団法人日中産業交流協会理事。
2. 反日デモ2012年
2012年11月の中国共産党大会で習近平は総書記に就任しますが、その年の8月に2005年の反日デモを上回る大規模な反日デモが中国全土で起きました。日本政府が尖閣諸島を国有化したことがきっかけでした。このとき私は北京の子会社に出張していました。子会社が入居しているビルは日本大使館の前にありましたので、連日、大型バスで動員された大勢の中国人がそのビルの前に座り込んでいました。
2005年と同様、デモが認められていない中国で再び大きなデモが起きたことになります。地方からバスをチャーターして動員された人たちが、中国でまだ普及していなかったカラー印刷の反日プラカードを持ち、毎日配られる弁当を食べていました。明らかに官製デモです。北京のデモは平穏でした。地方ではデモがエスカレートし日本企業の工場やスーパーマーケットが襲われたりしましたが、広州市などでは共産党の建物が襲われ始めたりしたため官製デモは収束していきます。
3. マイナリティが統治する国
中国では大勢の善意な人に巡り合ってきました。一方で過激な反日デモもありました。中国人の心の内が分からなくなり、少しでも理解しないと中国では仕事ができないかもしれない、その心の内を知りたい、ヒントは中国の近代史にあるのではないかと思い始めました。2000年の初頭です。その頃の北京市内には四合院という四軒の家がロの字型に連なった昔ながらの集合住宅があちこちにあり、中庭では皆が料理をしたり洗濯したりする姿を見ることができました。また市街地にはたくさんの路地裏があり夏には縁台を出して将棋をする老人たちもいて穏やかな時間が流れていました。こういう市井の人たちの歴史を調べようと思いました。残念なことに2008年の北京オリンピックを境に四合院も路地裏もすべて取り壊されてしまいました。
辛亥革命、日中戦争、国共内戦、数千万人が飢えで亡くなったとされている大飢饉、文化大革命、天安門事件など近代に次々起きた動乱の中を生き抜いてきた中国の市井の人たちの生き方は時系列的に事実を並べた歴史書を読んでも理解できないだろうと思い小説を読むことにしました。船戸与一の「満州国演義」全9巻、浅田次郎の「マンチュリアン・リポート」「中原の虹」「天子蒙塵」などの中国シリーズ、そのほかこれはと思う本を次々に読破しました。北方謙三の「水滸伝」を除けば近代史に限定しました。特に「満州国演義」全9巻は旧満州、今の中国東北三省(吉林省、黒竜江省、遼寧省)の市井の人たちが日本軍(関東軍)、中国の軍閥、共産党、国民党、馬賊などに翻弄されて生き残っていく様を描いた必読の小説だと思います。
中国は秦の始皇帝によって初めて統一されたといわれていますが、常に内や外で戦いを繰り返し、そのたびに王朝が変わり領土が変わり国の統一の仕組みも変わってきました(これを易姓革命といいます)。現在の中国は人口の90%が漢民族ですが、易姓革命は支配王朝が代わるごとに支配民族が代わってきました。清王朝(1636年~1912年)は人口の10%未満の満州族が多数派の漢民族を支配していました。現在も中国共産党の党員は全人口の10%程度です。なぜ中国ではマイナリティが国を統帥できるのか、なぜマジョリティである市井の人たちはこれを受け入れることができるのか。この疑問は中国を理解する鍵になるかもしれません。
4. 私の歴史観
ここで天安門事件の際の日本政府の対応を探ってみます。30年以上経過した外交文書は30年を経過すると公開されるという「30年ルール」があります。外交文書の中でも秘密指定されている「天安門事件ファイル」も2019年から順次公開されるようになりました。作家の城山瑛巳氏は著書「天安門ファイル」(中央公論社)で在中国日本大使館の職員と日本政府との間でやりとりされた大量の外交文書に目を通してその当時北京で何が起きていたのか、日本大使館の職員はどのように動いたのか、北京から報告を受けた日本政府はどう対応しようとしたのか等々を公開された外交文書を通して紹介しています。
天安門事件の直後に開催された第15回先進国首脳会議(アルシュサミット)で西側諸国は中国政府の人権侵害を非難する「中国に関する宣言」を採択しますが、日本政府だけが採択に反対しました。日本政府は日本が過去に犯した中国に対する侵略行為に対する贖罪意識から日本と中国は特別な関係にある(日中特別論)という理由から中国を国際的に孤立させないようにしたかったのです。
確かに、中近代中国の歴史を学べば学ぶほど、日本の過去の軍事侵略や残虐行為の事実に直面せざるを得ません。普通に贖罪意識が生まれます。しかし、私は中国人から過去のことについて面と向かって非難された経験がありません。中国の学校の教科書には日本の軍事侵略のことを批判的に書いています。中国人は当然ながら日本に対して強く思うところはあると思うのですが、いつも『過去のこと』『これからのことが大事』とステレオタイプ的な返事がきます。そんなとき親しくしている中国人から『中国の教科書に出ていないが、それに類すること、それ以上の悲惨なことが現代の中国には何度もあった』『中国人はそれを忘れていない』と言われました。それが何なのか明言されませんでしたが近代中国史を勉強するとおおよそのことは分かります。ただそれを口外しない、あるいはできないという暗黙の了解があるように感じます。
さて、南京市には虐殺記念館があります。日本軍が過去に犯した残虐なシーンはジオラマで再現されているにもかかわらず記念館が近代的な美術館のような建物のせいか真に迫ってきません。大勢の中国人が見学に来ていましたが黙々と見学し、日本人の私がそばにいても何も言いません。また、旧満州の一部である黒竜江省哈爾濱(ハルピン)市には日本軍の細菌部隊731が大勢の中国人を人体実験した建物がそのままの姿で残されて記念館になっています。当時の建物のままなので残虐行為を再現するジオラマは真に迫ってくるものがあります。しかし南京市の記念館に比べると訪れる人は格段と少なく私が日本人だと分かっても誰からも何も言われませんでした。
その後、南京市で仕事を通じて親しくなった中国人に『日本の会社と一緒に仕事をすることは快く思っていないのではないか?』と尋ねたことがありあります。すると彼は『歴史は終わったことを思い出すものではない。これから始まることを予測するもの』『過去から利益は生まれない』『今の中国は日本から技術を学ぶことが先決だ』だと言いました。
中国の兵法書三十六計に「指桑罵櫆(しそうばかい)」という言葉があります。桑の木を指して怒っているが実は櫆(えんじゅ)の木を罵っている、つまり本当に怒っている相手は指をさされた相手ではない、誰に怒っているか見抜かなくてはならないというものです。また鄧小平は海外から資本と技術を導入しやすくするためには能力を隠して好機を待つ「鞱光養櫆(とうこうようかい)」が大事だと言った時があります。
中国人は簡単に本心を語らない、心の奥を読ませない、だから時間をかけて察しなければならないと思いました。ただ中国社会の監視システムが激しい現在、この人はどう人なのかを察するのは大変難しくなりました。迂闊に踏み込めば警戒され迷惑をかけるかもしれません。今は、残念なことにそういう時代になっています。
私は、日本が中国で犯した軍事侵略に対し日本人としての贖罪意識はありますが、それだからといって日本政府が考えていた「日中特別論」はありません。中国の友人が指摘したように「歴史は未来への羅針盤」だと考えています。ただ残念なことに中国人ひとりひとりの未来志向は共産党一党支配によって制約を受けています。このことが中国人の心の中の闇の部分になっていると思えて仕方ありません。親しくなればなるほどその闇の部分が見えてきます。共産党による監視社会は中国人の警戒心を強くしてしまいました。いつか本心で語り合える時が来ることを願うしかありません。
5. 言うべきことは言う
天安門事件があったとき、日本政府の中でも人権問題を指摘すべきだという意見はあったようですが「日中特別論」によって抑えられました。私は人権問題を指摘すべきであったと思っています。人権尊重は世界共通のコンプライアンスです。過去の事実と人権侵害を指摘することを相殺すべきではないと思っています。
私は今でも中国で中国の企業と交渉することがあります。中国人は交渉が巧みです。それは過去の辛苦を耐え忍んで利益を守るために習得した技術だと思っています。対して日本人は言うべきことを言いきれない弱さがあります。それは「日中特別論」から始まった中国に対する奇妙な遠慮に由来しているのではないかと思います。自社や自国の利益を守るためには、言うべきことを言いきり、それから落としどころ探るべきだと思います。お互いの間には信じきれない一抹の不信感が漂ったままで、これでは日中間に未来像は生まれません。まだまだ道半ばです。
<筆者プロフィール>
大澤頼人(おおさわ・よりひと)
伊藤ハムにおいて約 30 年間企業法務に携わる中で、 1997 年から中国事業にかかわる。同社法務部長(2000 年~2013 年)、同社中国常駐代表機構一般代表(2002 年)、同社中国子会社の董事、監事等を経て、2013 年に J&C ドリームアソシエイツを設立し代表に就任。日本企業の中国ビジネスやグローバルガバナンス体制作りを支援している。同志社大学法学研究科非常勤講師(2006 年~2022 年)、立教大学法学部非常勤講師(2015 年)、上海交通大学客員教授(2008 年~2011 年)、中国哈爾濱市仲裁委員(2018 年~2023 年)、上場企業の社外監査役なども歴任。