2024年08月22日公開
中国企業法務の軌跡(1)
J&Cドリームアソシエイ 大澤頼人 *1
1. 世界を変えた1989年
1989年まで世界は旧ソビエト連邦を中心にした東側諸国と米国を中心にした西側諸国が対立する東西冷戦構造でしたが、この年、その構造が崩壊します。ベルリンを東西に分断していたベルリンの壁が崩壊しドイツは統一されます。ポーランド、ハンガリー、旧チェコスロバキアでは共産党一党独裁が廃止され自由選挙によって大統領を選出することになりました。そして2年後の1991年にソビエト連邦は崩壊しゴルバチョフが選挙で大統領に選ばれました。1989年のダイナミズムな変革を知るにはマイケル・マイヤーの『1989 世界を変えた年』(作品社)をお勧めします。
それより以前の私が学生だった1970年前後、世界はベトナム反戦運動・平和運動が渦巻き、大学紛争が吹き荒れていた時代がありましたが、それでも世界も日本も変わりませんでした。そしてこれからも変わることはないだろうと思っていましたので、1989年の東西冷戦構造の崩壊は衝撃でした。ベルリンの壁を市民がハンマーで叩く姿は今でも忘れません。個人的にはポーランドの民主化運動を映像で支えた映画監督アンジェイ・ワイダの作品が大好きでしたので、ポーランドに自由と民主主義が誕生したことに感動しました。
*1) 2013年まで伊藤ハム法務部長、その後J&Cドリームアソシエイ設立。2002年伊藤ハム中国の一般代表。2013年まで伊藤ハムの中国子会社の董事、監事を歴任。2008年~2011年まで上海交通大学法学院客員教授、2017年~2022年まで中国哈爾濱市仲裁委員会委員、2006年~2023年まで同志社大学法学研究科非常勤講師、2017年立教大学法学部非常勤講師、2019年~2023年まで株式会社大泉製作所社外監査役、2013年から現在まで一般社団法人日中産業交流協会理事。
2. 天安門事件
そして中国でも大きなうねりがありました。1989年、言論の自由などを求める学生たちが北京の天安門広場に集結し、そこにさらに労働者や公務員など幅広い層の人たちが加わり、その数は100万人を超えて天安門広場を埋め尽くしました。その影響は中国の地方都市にも波及します。実はこのような動きは1989年にいきなり始まったことではなくそれ以前から北京の学生を中心に自由と民主主義を求める動きがあり、時の共産党総書記であった胡耀邦は学生の意見に耳を傾ける対応をしていましたが、共産党の最高指導者であった鄧小平の逆鱗に触れ胡耀邦は解任され趙紫陽が共産党総書記に就任します。しかし、共産党内の権力闘争が激しく趙紫陽も解任に追い込まれます(趙紫陽が学生たちの中に入って「来るのが遅く申し訳ない」と涙ながら語った日が解任された日でした)。
このような中国共産党の権力闘争は現在も続いており、それは立法や司法にも反映します。法律の制定や執行、契約の解釈にも影響を与えますので、中国での企業法務は中国共産党の政策や世界(特に米国)のパワーバランスにも関心を持つ必要があります。ただ、共産党に対してはシビリアンコントロールが効きませんから、中で何が起きているのかを外部の人が知ることは難しく、ましてや外国人には一層不可解です。
1989年6月4日、共産党一党支配が崩壊するかもしれないと危機感を抱いた鄧小平は人民解放軍を動員して武力でもって天安門を制圧します。戦車の前に立ちはだかる一人の学生の姿は今も映像で流されることがあります。残念ながら多くの市民や学生が人民解放軍の銃弾で撃たれて亡くなりました。今もその実数は不明です *2 。35年も前の事件ですが、日本人で50歳代後半以降の世代の人が抱く中国観に天安門事件を抜きに語ることはできないでしょう。ちなみに、天安門事件というのは、1976年4月5日の第一次天安門事件(四五天安門事件)と1989年6月4日の第二次天安門事件(六四天安門事件)があり、世界に衝撃を与えた天安門事件は後者の事件です。中国では今でも「64」「六四」のワードを使うときは注意が必要です。
この事件は世界的な批判を受け、中国は西側諸国から経済制裁を受けます。実は中国は1966年~1976年まで続いた文化大革命が失敗に終わり、その結果、国は荒廃し、経済成長はマイナスとなり、都市部には貧困層が溢れ、農村部では多くの餓死者が出ました。鄧小平は、1978年、外国企業に税の優遇政策などを施して海外から資本と技術を導入する「改革開放政策」を実施し中国経済の立て直を図ります。これによって中国は「世界の工場」へとスタートを切ることになります。
このようにして走り出した経済成長でしたが、天安門事件後の西側諸国による経済制裁で再びマイナス成長に戻りました。このような経済の低迷期は1992年の社会主義市場経済政策が出されるまで続きます。社会主義市場経済理論は社会主義国でも市場経済に競争原理は成り立つという理論で、鄧小平が中国の華南地方を巡回しながら説いた理論です(この巡回を南巡講話といいます)。その時の共産党総書記は江沢民 *3 でした。社会主義国の経済政策は伝統的に計画経済(国が統制する経済政策)ですから、この鄧小平の理論は私には詭弁に思えます(あくまでも個人的見解です)。
しかし、この理論が中国社会で肯定的に受け入れられたことは間違いなく、ここから中国経済は再浮上し現在に至ります。この結果何が起きていたかについては別の機会に触れたいと思いますが、昨今問題になっている中国の不動産問題と経済の悪化の原因の下地はここにあると思っています。
1989年の天安門事件を見たときに感じた恐怖心、不信感、自由や民主主義を求めた学生たちへのリスペクトは今も消えたわけではありません。ただ、その当時、私が在籍していた法務部は国内や米国、オセアニアを対象エリアにしていましたので、中国や天安門事件が自分の仕事に直接関わることはありませんでした。まさかその後に中国法務に関わり、今も関わり続けるとは全くの想定外です。
中国共産党の力は圧倒的です。一方で歴史を振り返ると中国人は権力に対しいつも何らかの工夫をしています。有名な言葉で「上に政策あり、下に対策あり」があります。このようなことは中国での事業活動で、例えば契約交渉などでも垣間見ることができますが、中国の歴史、文化、人々の生活などへの深い洞察がなければ見落としがちで、外国人にはなかなか判断がつきません。「すべてを言えない事情がある」ということを理解するには相当の年数と経験が求められます。そうかと言って先方の言うままを受け入れていては法務部の値打ちがありません。中国特有の知恵を働かせなければならいこともあり、それは中国法務に特有かもしれません。同じ漢字文化の国ですので、漢字の使い方で意図が通じる場面もあります(漢字の意味が違うこともあり、そこから誤解が生まれることもありますから注意が必要です)。
このように、中国での企業法務は、中国の歴史や文化、共産党の政策、中国法の知識、中国での人脈、世界の動向(例えば米国の対中政策)などが複合的に絡み合います。そこが中国企業法務の面白いところかもしれません。
*2) 2003年に伊藤ハム北京の事務所が天安門広場近くの国際大厦(国際ビル)の5階に設けられましたが、部屋の天井には数発の銃弾が入ったままでした。銃を乱射したのでしょうね。
*3) レーニン主義によれば共産党は派閥を作らないことになっていますが、中国共産党では結党以来、抗日戦争、国共内戦を通じて結果的に派閥争いが絶えませんでした。現在では、共産党高級幹部の子弟による太子党、共産党が指導する青年組織である共青団が派閥として理解されていますが、それ以外には江沢民が指導する江沢民派(または上海派閥)も派閥にカウントすることもありましたが2022年に江沢民が死去して以来江沢民派は壊滅したともいわれています。
3. 契約を結ぶ
私は1997年に初めて中国に入りました。私の中国法務の第一歩です。社会主義市場経済政策から5年目です。まだ発展途上国の感がありました。旧青島空港で体感した中国特有の湿気や匂いは今でも覚えています。行き先は山東省莱西県の中の小さな鎮(日本でいう村)でした。今は莱西市になっています(中国の行政区分では市が県の上位になります)。まだ高速道路がなく悪路も重なり青島空港から車で3時間ほどかかりました。
中国の行政区画は別の機会に詳しく話をしますので、ここでは軽く触れるだけにします。中国の行政区分は、省、自治区、直轄市、市、県、郷、鎮、などがあり(憲法第30条)、北京にある中央政府と地方政府は授権関係に立ち、地方の自主性と規則性を十分に発揮させることを原則としています(憲法第3条4項)。
とは言っても、中国は共産党一党支配の国で、地方の行政組織は日本の地方自治体のような法人格 *4 はなく国家機関のひとつとして中央政府の指導下 *5 にあり、各行政区画にある共産党の指導を受けることになっていますから、憲法で言う自主性や規律性が文言通り機能しているかどうか疑問はあります。
このように中国では法律の文言と実態の乖離に注意する必要があります。極端に言えば、中国での企業法務はこの乖離を前提にし、その乖離が日本企業の中国での事業活動でリスクになる可能性があれば備えることが必要です。
さて、話を本題に戻します。我々の目的は地元企業と製造委託契約を締結し、原料調達、製造、品質管理、パッキングから輸出までのプロモーションを確認することでした。地元企業で契約書の読み合わせをしましたが、日本企業との約束は守ると言うだけで直ぐにサインされました。契約書は中国法の契約実務に実績のある弁護士が作成し、想定問答集を作り日本で練習してきたので肩透かしを食らった感じです。
その夜は調印式という名目の食事会があり、鎮政府の役人と地元の共産党委員が参加しました。今でこそ政府の役人との食事会は中央であろうと地方であろうと禁止されていますが、当時は食事会で情報を交換する慣習がありました。そこで言われたのが「製造委託より投資をしてほしい。土地や工場の調達に協力する」「税金はしばらく納めなくてもよい *6 」などでした。中国政府は、中国の経済復活には海外企業の資本と技術を中国に移転することが必要だと考え、そのために外資優遇政策を進めていたということが背景にあります。それは地方の小さな都市でも同じことでした。しかし、会社が山東省の中国企業に食品の製造委託を決断することは容易なことではなかったので、中国側との意識のすれ違いに契約を遵守する気はないかもしれないという一抹の不安がよぎりました。
後でわかることですが、中国の中央政府の幹部は契約を重視していました。しかし、文化大革命や天安門事件の影響で人材の育成が遅れ、教育啓蒙も十分浸透しておらず、小さな地方都市には契約を重視する政府の意図が伝わっていなかったようでした。中国は広大です。今のようなIT技術がなかった当時、政策の共有には時間を要しました。IT技術は共産党の一党支配を容易にしたと思いますが、それはもっと後のことになります。
実は中国人にとって契約交渉は重要なイベントです。なぜならば過去に契約交渉に失敗した歴史的な遺恨があるからです。それはアヘン戦争による香港割譲です。1842年の南京条約(第1次アヘン戦争)と1860年の北京条約(第2次アヘン戦争)によって香港はイギリス領になります。中国では条約交渉の失敗で領土の一部をイギリスに奪われたと総括されています。
記憶があいまいで資料も紛失してしまいましたが、2000年に入った頃、中国政府は中国企業や地方政府に対し適切な契約を締結するよう通知を出しました。その後、各地方政府はモデル契約を作成し、中国企業の多くはそのモデル契約を利用しています。また、中国企業が海外企業と対等に交渉するためには、法務部や弁護士のスキルを上げることが必要だと考えていました。2002年に統一司法試験 *7 を実施し、それまで実施されていた弁護士資格試験を廃止しました。また2008年から中国企業法務大会を開催し、大学の法学院(ロースクール)と企業との産学協同関係を強化しています。私は上海交通大学で開催された第1回の企業法務大会に招待されて参加しましたが、著名な中国企業が参加していたことを覚えています。現在、中国企業の法務部には多くの弁護士が在籍しており、法務部に占めるインハウスロイヤーの割合が10%前後の日本とは格段の差があります。が。
とは言っても、契約は政府や共産党の思惑、権力闘争、世界のパワーバランスを背景にしていることがあり、文言と実務の乖離のリスクはあります。契約書では定義条項、中途解約条項、表明保証条項に細心の注意が必要です。もっともどういう場合に契約の中途解約ができるか、どのようなことを表明保証させるか、を具体的に指摘しなければ不信感を募らせるだけになります。法務部の力量が問われます。これについても別の機会にお話します。
*4) 地方自治法第2条。これにより地方自治体は統治の主体になり契約当事者になれる
*5) 中国憲法では「領導」という言葉が使われており、その意味が曖昧なため日本語では「指導」という言葉が使われます。「指導」は指導される側の自主性を尊重しますが「領導」は強制的な意味があります(異論はあると思います)
*6) 外国投資企業及び外国企業所得税法による2年間の企業所得税の免除、3年間は50%免除、いわゆる2免3減と言われる制度で現在は廃止されている。
*7) 統一司法試験が実施される前、法律知識のない軍隊出身者が裁判官や検察官に就任していた。
<筆者プロフィール>
大澤頼人(おおさわ・よりひと)
伊藤ハムにおいて約 30 年間企業法務に携わる中で、 1997 年から中国事業にかかわる。同社法務部長(2000 年~2013 年)、同社中国常駐代表機構一般代表(2002 年)、同社中国子会社の董事、監事等を経て、2013 年に J&C ドリームアソシエイツを設立し代表に就任。日本企業の中国ビジネスやグローバルガバナンス体制作りを支援している。同志社大学法学研究科非常勤講師(2006 年~2022 年)、立教大学法学部非常勤講師(2015 年)、上海交通大学客員教授(2008 年~2011 年)、中国哈爾濱市仲裁委員(2018 年~2023 年)、上場企業の社外監査役なども歴任。